モンテネグロの秘宝・コトル
紺ぺきの湾と、険阻な岩山を見ながらひたすら東へ歩く。湾の奥に、古めかしいベージュ色の教会の塔が見え始めた。モンテネグロの古都コトルだ。この町は、全長4.5キロの灰色の城壁によって囲まれている。濠にかけられた橋を渡り、城門から中に入ると、まるで迷宮のように狭い路地がくねくねと続いている。町の背後には、高さ約1900メートルの岩山が聳えている。山の中腹からコトルの町を見下ろすと、この入り江が高い山に囲まれた自然の要塞となっていたことがわかる。
古代にはギリシャ人、そしてローマ人たちがコトルにやって来た。この町の名前は、すでに紀元前168年の記録に見える。古代ローマ人たちはこの町をアスクリビウムと名付け、帝国の辺境に編入した。この町は入江の奥にあることから、船舶が嵐の際の波浪から守られる。それが、この町がさまざまな民族によって重視された理由だ。町は840年にはイスラム教徒によって略奪された他、1242年にはモンゴル軍に破壊された。
14世紀にコトルは貿易都市として重要な地位を占めるようになり、ベネチア共和国やラグッサ共和国(今日のクロアチアのドゥブロブニク)と対立関係に陥る。1369年にはベネチア共和国の軍勢がコトルを占領して町の一部を破壊した。コトルは1391年に一時的に共和国として独立したが、1420年にベネチア共和国に帰属し独立を失う。ベネチア人たちはこの町をカタッロと呼んだ。
ベネチア共和国は1797年に崩壊。1815年にコトルはオーストリア・ハンガリー帝国に編入された。オーストリアは、ここに軍港を建設して潜水艦や軍艦を停泊させるとともに、ハンガリー歩兵連隊を駐屯させた。第一次世界大戦末期の1918年2月には、コトルの軍港で約6000人の水兵が反乱を起こし、船のマストに赤旗を掲げた。水兵たちは将校たちを武装解除し、評議会を創設した。だが、オーストリア・ハンガリー軍の攻撃を受けて反乱は鎮圧され、首謀者は処刑された。第一次世界大戦が終結したのは、その9カ月後だった。
現在では、軍艦ではなくドイツなどの旅行会社の大型客船がコトルの港に錨を下ろしている。ベニスが大型客船の寄港を禁止したため、コトルに来る船が増えた。船は港に一晩、時には数時間だけ停泊して、次の港へ向けて慌ただしく去っていく。
大型客船からの観光客の群れでごった返しているものの、コトルの背後の山から町を見下ろし、屋根瓦の茶色と青い海、山脈の対比を楽しむ価値はある。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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