悲劇の戦艦・陸奥が眠る海(上)
今年6月、私は山口県の周防大島にいた。車で島の東端、伊保田という村に向かった。ここから約5キロメートル北に柱島という島がある。瀬戸内海は波が穏やかだ。私が訪れた時、海面にはほとんど波が立っていなかった。だが、今から81年前、この海は日本海軍の歴史に残る大惨事の舞台となった。この島と周防大島の間の海底には、今も戦艦・陸奥の艦体の一部が眠っている。
1943年(昭和18年)6月8日、戦艦陸奥は柱島付近に停泊していた。当時、付近の海域は日本帝国海軍の停泊地だった。その理由の一つは、広島湾沖の同海域には小さな島が多く、敵の潜水艦が侵入しにくいことだった。呉の軍港が近いことも一つの理由だ。
乗組員たちが昼食を終えて休憩していた12時15分頃、陸奥の第3・第4砲塔の付近で突然大爆発が起きた。艦体は二つに折れて海中に没した。乗員1474人のうち、約76%に当たる1121人が死亡した。艦長、副長など多くの上官が艦と運命をともにした。
1921年に竣工した陸奥は、全長225メートル、基準排水量約3万9000トン。41センチの巨砲を4基備えていた。40年代に戦艦大和や武蔵が就役するまで、陸奥は長門(ながと)とともに日本最大の戦艦だった。その花形戦艦が謎の爆沈を遂げたことは、日本海軍の上層部に衝撃を与えた。
このため、当時の日本軍は、陸奥爆沈を軍の最高機密の一つに指定し、徹底的なかん口令を敷いた。うわさを流布する者は容赦なく警察に検挙された。爆発を目撃した漁民らには他言を禁止し、手紙で爆発について触れる者がいないかどうかを点検するために、一時この地域での封書の送付を禁止したほどだ(葉書は軍が検閲できるため、はがきの送付は認められた)。乗組員たちの遺体は、この海域の近くの無人島の浜辺で荼毘(だび)に付された。
日本海軍の査問委員会による爆発原因の調査は難航した。日本海軍はまず、陸奥が搭載していた新型の高射砲弾(三式弾)が自然発火したのではないかと疑った。この高射砲弾は、発射されて一定の高度に達すると破裂して小型焼夷弾を周囲にばらまく。それによって襲来する米軍機を一度に多数撃破することを目的としていた。
だが、日本海軍がさまざまな弾薬の発火実験を行ったところ、三式弾の焼夷弾が爆発する時には白い煙が出ることがわかった。生存者が「第3砲塔の付近から黒い煙が噴き出して、爆発した」と証言していたことから、日本海軍は三式弾の自然発火説を打ち消さざるを得なかった。
(参考資料:陸奥爆沈・吉村昭著)
(つづく)
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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