フランクフルトとロスチャイルド家(3)瓦礫の山から
富豪マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの孫ヴィルヘルムは、フランクフルトの銀行を引き継いだが、息子がいなかった。このため、ヴィルヘルムが1901年に没して男性の家系が絶えると、フランクフルトのロスチャイルド銀行は閉鎖された。
同行の顧客や口座はディスコント銀行フランクフルト支店が引き継いだ。この銀行は1929年にドイツ銀行と合併した。つまり、今日ドイツ最大の商業銀行であるドイツ銀行には、ロスチャイルド銀行の「血脈」も流れている。ロスチャイルド銀行は金融センター・フランクフルトの基盤を築いたのだ。
だが、1930年代のドイツは狂った国粋主義の暗雲に覆われる。1933年にナチス党が政権を取りユダヤ人迫害を始めた時に、フランクフルトのロスチャイルド銀行はすでに存在しなかった。もしもこの時にロスチャイルド家が銀行営業を続けていたら、ユダヤ人が経営していた他の多くの企業のように、財産を没収されたり、銀行を非ユダヤ人に二束三文で売るように強制されたりしていたはずだ。
当時フランクフルトには約3万人のユダヤ人が住んでいた。人口の約5%がユダヤ人だった。しかし、そのうち約1万2000人は、ナチスによって強制収容所へ送られて殺された。残りはパレスチナや米国など、ドイツ国外へ移住した。このため、1945年に米軍が瓦礫の山と化したフランクフルトに到着した時、この町に残っていたユダヤ人の数は約200人にすぎなかった。
「アンネの日記」で世界的に知られるアンネ・フランクの家族も、フランクフルトに住んでいた。1929年にこの町で生まれたアンネは、家族と共にアムステルダムに逃亡して潜伏していたが、何者かに密告されて、1944年にゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に逮捕された。アンネはアウシュビッツ強制収容所、次いでベルゲン・ベルゼン収容所に送られ、そこで病死した。父親のオットーもアウシュビッツに送られたが生き残り、娘の日記を出版した。
フランクフルトのユダヤ博物館の一室には、スイスに亡命したアンネの家族が保管していた食器や蔵書、玩具などが展示されている。シャンパングラスやスープ皿から、フランクフルトの中産階級の暮らしぶりが伝わってくる。
今日では、約7000人のユダヤ人がフランクフルトに住んでいる。彼らはドイツ人をいつまでも憎みはしない。しかし、1933年からの12年間に受けた残虐な仕打ちは、永遠に忘れない。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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