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特集

【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】  築地の話(阪神・淡路大震災)

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2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。

築地の話(阪神・淡路大震災)



築地震災復興まちづくり記念碑



【保険毎日新聞 2025年1月28日 掲載】

築地といっても、今回の「石碑は語る」は東京の旧築地市場の話ではなく、兵庫県は尼崎市にある築地(ついじ)の話となる。この築地、平成7(1995)年に起きた阪神・淡路大震災では尼崎市の中でも特に大きな被害となった地域の一つだ。

尼崎市の震度は推定6。推定と言ったのは、この地に気象庁の施設もなく、市の地震計も設置されておらず、周辺の揺れの強さから推定されたからだ。当時の被害地図でも、市全体では全半壊がまばらなのに比べ、この築地地区だけは地域全体が「面」で全半壊しており、その被害の大きさが分かる。その原因は、まさに液状化現象だった。

もともとこの地域、平安時代頃は葦(よし)の茂る砂州と島、白砂清松の地だったらしい。この一帯は「浦の初島」とも呼ばれ、東北の松島に似て「摂津の松島」ともうたわれ、景観を楽しむ歌人なども訪れていた。後撰集にも「あな恋し 生きてやみまし 津の国の 今もありてふ 浦の初島」と詠まれていたくらいだ。阪神・淡路大震災を引き起こした強い揺れは、砂州を波打つように揺らし続けた。地域の地盤をさらに弱くした原因の一つが工場による地下水のくみ上げだった。地盤沈下を起こした結果、築地地区全体が海抜ゼロメートル以下だったという。

図説「尼崎の歴史」によれば、「震災時の約1100世帯のうち10戸が全壊、292戸が半壊し、不等沈下による傾斜は家屋全体の約80%に及びました」と記している。家屋の倒壊とその後の大規模火災が印象的な阪神・淡路大震災だが、液状化による被害が地区全体を席巻していた場所も少なからずあった。

この築地地区の中央に築地公園がある。その一角に「築地震災復興まちづくり記念碑」が建ったのは地震後12年を経た平成19(2007)年4月のことだ。碑文は、この築地が江戸時代に尼崎城下八町の一つとして城下町の歴史を色濃く残す町で尼崎市発祥の地であるとの歴史を紹介した上で、震災後は「震災復興まちづくり」に取り組み、土地区画整理事業による基盤整備と住宅地区改良事業による住環境整備が行われたと伝えている。ゼロメートル以下という築地だけに、市では復興事業に当たり、「地区全域にわたって平均約1・5㍍の土地のかさ上げを行い、住宅地と工場の分離や歴史的景観に配慮したまちづくりを進めた」という(図説「尼崎の歴史」)。

わが国には東京、名古屋、大阪など多くの地域にゼロメートル以下の地域が存在し、埋め立地にも多くの住民が暮らしている。液状化現象、さらには津波による浸水などで長期にわたり生活再建が遅れる可能性もある。過去の被害を未来の教訓として伝えていくことが、われわれに与えられた使命でもある。
(森隆/日本ペンクラブ会員)



震災後に整備された築地公園



【地震メモ】
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。尼崎市でも死者49人、住宅の全壊約5690棟、半壊約3万6000棟もの甚大な被害となった。震災後、築地地区では早い段階から住民などが中心となって復興委員会を設立、行政などと共に新たなまちづくりに取り組んだ。

【参考】図説「尼崎の歴史」(尼崎市)





【アクセス】
阪神線尼崎駅から約1㌔



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