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新ヨーロッパ通信

【新ヨーロッパ通信】ゴリツィア・愚かな戦争の記憶

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 イタリアの北東部、スロベニアとの国境に近い地域に、ゴリツィアという人口約3万人の町がある。ゴリツィアはイタリア語。ドイツ語ではゲルツ、スロベニア語ではゴリツァだ。町の三通りの呼び方は、この町の複雑な歴史を物語っている。
 この町は中世以来、ゲルツ伯爵という貴族の領地だった。今も丘の上には、伯爵家が築いた堅牢な城が残っている。1500年頃にゲルツは、ハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国に編入された。
 ただし、この町はイタリアとスロベニアにも近いことから、多民族都市の様相が強かった。1900年には約2万5000人がここに住んでいたが、そのうち、63%がイタリア語、19%がスロベニア語、11%がドイツ語を母国語としていた。市民の多くは、三つの言葉を使って暮らしていた。
 だが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、この町のイタリア系住民はイタリアに、スロベニア語とドイツ語を話す住民たちはオーストリア・ハンガリー帝国に疎開した。1915年にはイタリアがオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦を布告し、この町をめぐる攻防戦が始まった。スロベニア系住民は、オーストリア・ハンガリー帝国側で戦った。使う言葉が違うとは言え、以前一つの町で暮らしていた住民たちが、敵味方に分かれて戦ったのである。
 イタリア軍は一時、ゴリツィアを占領した。1920年に連合軍とオーストリア・ハンガリー帝国の間で発効したサンジェルマン条約に基づき、ゴリツィアを含む地域はイタリアに編入された。
 ちなみに、1945年にはゴリツィアの町の東部を、ユーゴスラビアのパルチザンが占領した。この地区はノヴァ・ゴリツァと呼ばれ、スロベニアの領土となった。ただし、イタリア・スロベニアともに欧州連合に属している友好国であり、町を分断する国境線などはない。
 ゴリツィア城には、第一次世界大戦に関する博物館が設置されており、この地域での戦闘で使われた小銃や機関銃、兵士たちが着ていた軍服などが展示されている。第一次大戦では毒ガスも使われ、多数の死傷者が出た。博物館には、前線で使われたガスマスクも展示されている。ある訪問者は博物館のゲストブックに、「当時の状況には、今日の欧州と似ている点がある」と書いていた。第一次世界大戦は、サラエボでオーストリアの皇太子が殺されたことから始まった。初めて近代兵器が使われたため、死者数は全世界で約1600万人にのぼる。人類は、過去の失敗から学ぶことができるだろうか。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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