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【新ヨーロッパ通信】トリエステの坂道
今年8月、私はイタリアの北東の端の都市トリエステで、急な坂道を下っていた。石畳でつまずかないように、慎重に歩く。ふと前を見ると、坂道の下に紺碧の海が見えた。今日の人口は約20万人。トリエステを歩くと、市役所、オペラ劇場など、オーストリアの雰囲気を漂わせた建物が目立つ。
それもそのはず、トリエステは1382年から1918年まで536年間にわたり、ハプスブルグ家が支配するオーストリア・ハンガリー帝国に属していた。この町は中世以来、南欧で最も重要な港湾都市の一つとして栄えた。1802年にトリエステで扱われた貨物量は約48万トンにすぎなかったが、1912年には約460万トンに増えた。この結果、トリエステはオーストリア・ハンガリーで最も裕福な地域の一つとなった。例えば、1906年にはウィーン市民1人当たりの課税対象所得は9クローネだったが、トリエステ市民1人当たりの所得は54クローネだった。
オーストリア・ハンガリー帝国の1910年の人口は、約5140万人。今日の中東欧の多くの国々を包含する多民族国家だった。トリエステも民族のるつぼで、20世紀初頭の人口の75%がイタリア系、18%がスロベニアなどからのスラブ系、5%がドイツ系だった。多くの市民がイタリア語とドイツ語など複数の言語を使って暮らしていた。
だが、1914年に勃発した第一次世界大戦は、トリエステの運命を暗転させた。オーストリア・ハンガリーとイタリアが敵と味方に分かれたからだ。ドイツ語を話す住民の多くが、戦火を恐れてオーストリア・ハンガリーの他の地域に避難した。1915年には、イタリアがオーストリア・ハンガリーに対して宣戦布告。トリエステ周辺の山岳地帯では、両軍の間で激しい戦闘が繰り広げられた。
1918年にはオーストリア・ハンガリーが敗北し、1919年に連合国と敗戦国が結んだサンジェルマン条約により、トリエステはイタリアに帰属した。
トリエステ港に面した広場の美しい建物に、「ゼネラリ保険」という社名が刻まれていた。この町は、イタリア最大の保険会社ゼネラリが1831年に創業した場所でもある。トリエステに繁栄をもたらした海運業にとって、船舶保険や貨物保険は不可欠だった。経済活動を支える金融サービス業の発展も、町の豊かさを象徴している。
今日のオーストリアの人口は約920万人。オーストリア・ハンガリーの人口の約6分の1だ。欧州を戦争に巻き込んだ大帝国は、跡形もなく瓦解した。戦争の道を選んだ指導者たちの愚かさを示す事実だ。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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