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新ヨーロッパ通信

【新ヨーロッパ通信】フランコ独裁の傷痕

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 スペイン南部のバレンシア。アユンタミエント広場にある市役所は、いくつもの塔で飾られた、行政機関というよりは宮殿のように華麗な建物である。私は市役所の前を歩いている時に、大理石の壁がえぐられた箇所がいくつもあることに気がついた。これは1936年から39年に起きたスペイン内戦で、反乱軍を支援するイタリア空軍が投下した爆弾の破片によるものだ。戦争の記憶を風化させないために、弾痕が残してあるのだ。
 スペインの軍人フランシスコ・フランコは1936年に武装蜂起し、共和派との間で激しい戦闘を繰り広げた。反乱軍にはナチス・ドイツとイタリアが武器や弾薬を供給し、共和派はソ連やメキシコの援助を受けた。欧米からの義勇兵から成る国際旅団は共和派を支援してフランコ軍と戦った。米国の作家アーネスト・ヘミングウェイや、英国の作家ジョージ・オーウェルも国際旅団に加わった。
 マドリードに反乱軍が迫ったため、共和派は1936年から37年まで、共和国の首都をバレンシアに移した。このためバレンシアは反乱軍によって、400回にわたり空爆や、海からの艦砲射撃を受けた。この攻撃によって市民約800人が死亡し、約3000人が負傷した。市役所の地下には、700人を収容できる防空壕も設置された。この防空壕は今も残っている。ピカソが描いた「ゲルニカ」も、フランコ軍によるある村へのテロ爆撃を題材にしたものだ。
 内戦は反乱軍の勝利に終わり、共和派の兵士や市民約70万人が、ピレネー山脈を越えてフランスに亡命した。彼らは当初、砂浜に鉄条網を張り巡らしただけの収容所に入れられた。フランコは1975年に没するまで、独裁者として恐怖政治を行った。帰国をあきらめて、フランスに帰化したスペイン人も少なくない。
 内戦の死者数は50万~100万人と推定されている。フランコは内戦後も、共和派のメンバーを処刑した。今年はフランコ没後50年にあたるが、処刑された被害者の遺体がどこに埋められたかわからないケースも多い。
 社会の亀裂は今も残る。昨年行われた世論調査によると、回答者の5人に1人が「フランコ時代は良かった」と答えた。ドイツとは違って、スペインでは過去の残虐行為など、歴史の影の部分を国民に公表するという試みが遅れている。その一つの理由は、今もフランコ時代にノスタルジーを感じる市民が少なくないためだ。
 強い太陽の日差し、陽気な国民性とは対照的に、スペイン社会には内戦・独裁時代の分断が、今なお影を落としている。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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