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新ヨーロッパ通信

北海道追憶旅行

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 今年4月に、北海道を列車で旅した。私の亡き父は北海道・函館の出身である。日本の歌謡曲や演歌には北海道、特に「北」を扱ったものが多い。津軽海峡冬景色、北へ、北の宿、知床旅情、北酒場…。
 なぜ「北」なのか?53年ぶりに北海道に行って、理由がわかった。海を越えて「北へ行く」という行為には哀愁が漂う。今回の私の旅のように、わずか10日間の旅でもそうだった。北海道を扱った歌の中でも、阿久悠の「津軽海峡冬景色」の歌詞は傑作だと思う。
 かなり暗い歌詞だが、共感できる。今回函館で吹きすさぶ強い海風を経験して、「これが真冬だったら、どんなにつらいだろうか」と思った。あの強風に雪が混じったら…と思うと、この歌が生まれた背景がわかる。函館は両側を海に挟まれているため、風が非常に強い。53年前に函館に行った時には、風の記憶はなかった。湯の川温泉の浜辺を散歩していたら、大きなブイのようなものが漂着していたのを覚えている。黒いブイは轟々たる波に洗われていた。私はなぜか一抹の恐怖感にとらわれたことが、心に残っている。
 歌に込められた感情を味わうには、東京から札幌へ飛行機で飛んではだめだ。哀愁を伴う旅をするには、新幹線であっという間に函館に着くのもだめ。東京から4時間20分で函館に着いてしまう。
 やはり、青函連絡船でないといけない。「私は独り、連絡船に乗り…」といった言葉は、北海道人の血を引く者にはジーンとくる。まだ新幹線がなかった時代には、北海道を捨てて海を隔てた本州へ渡ることは大変な勇気を必要としたはずだ。海峡は、どれほど多くの涙を飲み込んできたことだろうか。
 私は53年前に家族とともに、まず寝台夜行列車で上野から青森へ行き、青森から青函連絡船に乗って、函館を訪れた。かなりの長旅で、2日近くかかった。
 小学生だった私は、上野発の夜行列車に乗った。初めての寝台車だった。目覚めて窓のカーテンを開けると、列車はまだひたすら北へ向けて走っていた。胸がわくわくした。この経験が、私を旅行好きにしたのかもしれない。
 海峡を渡る連絡船は、哀愁をかきたてる。まるで霧の向こうのような、53年前の遠い記憶の中に、「はるかな場所に来た」という感情が残っている。青函連絡船は、1988年に廃止された。北海道・東北新幹線は便利だが、「津軽海峡冬景色」のセンチメンタリズムは、雪のかけらのように消えてしまった。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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