ロシアの団地体験記(下)
私は1995年にサンクトペテルブルクで、団地に泊まった。ここに住んでいた家族は読書好きだった。居間の壁はロシア語に翻訳されたバイロンやシェークスピアなどの本で埋まっていた。だが、この本は同時に、EUの委託によりロシアで環境保護プロジェクトを実施するドイツ人責任者Aさんの「金庫」でもあった。
Aさんによると、ソ連崩壊後は誰でも銀行に口座を開くことができるようになった。しかし、西側企業がサンクトペテルブルグに持つ駐在員事務所などが、本社からの送金のためにロシアの銀行に口座を開くと、ほとんどの場合、マフィアがやってきて金を要求した。ドイツ領事館の治安担当者すら、駐在員への説明会で「皆さんを守ることはできないので、マフィアの訪問を受けたら、断らずに会った方がよい」と忠告していたという。情報が銀行から闇の世界に漏れているのだ。もはや無法地帯である。
このためAさんは、銀行口座を開かないことにした。彼女は、自分が率いるプロジェクトのための資金をドイツでEUから受け取ると、何十万ドルもの現金を身体に巻き付け、上から洋服を着て、車に乗ってフィンランド経由でロシアに入り、自宅の居間の蔵書の中に隠していた。幸いなことに、Aさんがロシア滞在中の3年間に泥棒は一度も入らなかった。銀行を使わなかったために、事務所にマフィアも現れなかった。
この「金庫」を守るために、Aさんは私たちにある規則に絶対に従うことを求めた。それは、自宅から半径500メートル以内の所では、一言も口をきかないことである。団地に外国人が住んでいるとわかると、空き巣に入られる可能性が高いからだ。同じNGOで働くベルギー人は、階段で英語を話していたために、空き巣に入られた。住民から犯罪者への口コミ・ルートがあるのだろう。賊は大きな斧で木製の扉を破って侵入した。ロシアにはアジア系少数民族もいたので、われわれも外見からは外国人かどうかわからない。
Aさんはロシア語を話せた。しかし、アクセントから、ロシア人にとっては彼女が外国人であることはすぐわかる。そこでAさんは階段で近所の住民にあいさつをされても、一切返事をしなかった。「変な住民だと思われる方が、空き巣に入られるよりはましだわ」と彼女は言った。犯罪が多いとは聞いていたが、想像を絶する状態だ。3年間の緊張に満ちた生活の後、Aさんは生まれ故郷のドイツの町に戻り、のんびり暮らしている。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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