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デルフトとフェルメール

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 オランダの首都ハーグとロッテルダムの間に、人口約56万人のデルフトという古都がある。この国の特徴である水路が町を縦横に走っており、水面に教会やれんが造りの民家を映している。
 デルフトの町を歩いている時に通りかかった石の橋には、「1668年」と建造の年が刻まれていた。17世紀はオランダの黄金時代と呼ばれ、壮麗な建築物が建てられた。デルフトにはオランダ東インド会社(VOC)の支部が作られ、多くの商人たちがアジアの国々との貿易に携わった。
 アムステルダムに本社を持つVOCは当時世界最大の貿易商社で、アジアから香辛料、陶磁器、茶などをオランダに持ち帰った。インドネシアのバタビア(今日のジャカルタ)にも拠点を持っていた。1641年から長崎の出島で、日本との貿易を行ったのもオランダのVOCである。いわばオランダは、経済のグローバル化によって、富を築いたのである。
 デルフトは海に面していないため、13キロ南のロッテルダムに「デルフト港」という物資の陸揚げ港を持っていた。デルフトの商人たちは、ここから毎年3回、アジアに船出していった。私はロッテルダム西部にあるデルフト港にも行ってみた。細長い港に沿った小道には今も当時の建物が残っており、ある建物の屋根には積み荷が到着したことを知らせる小さな鐘楼がある。
 デルフトの繁栄は、豊かな文化を育んだ。1632年にこの町で生まれたヨハネス・フェルメールは、オランダの黄金時代を代表する画家である。彼は43歳の生涯に、わずか37点の油彩画しか残さなかった。だが、「恋文」「牛乳を注ぐ女」「真珠の耳飾りの少女」など、独特の空気感を持つ室内画は、オランダ・バロック期の最高傑作として知られている。屋外から暗い部屋の中に差し込む光が、フェルメールの作品に独特の奥行きを与えている。人物の表情、仕草の捉え方も絶妙だ。
 だが、1672年にオランダとフランスの間で勃発した戦争の影響で、フェルメールの絵は売れなくなり、借金のために首が回らなくなった。1675年に病を得て、デルフトで不遇の内に没した。だが、彼は死後、オランダを代表する画家の一人として高く評価されるようになった。アムステルダム国立美術館には、レンブラントなど黄金期の画家たちの作品を集めた一角がある。このホールにはフェルメールの作品も展示されており、その前には常に人垣ができている。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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