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新ヨーロッパ通信

【特別寄稿】能登半島地震の衝撃

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 2024年は恐るべき自然災害とともに始まった。石川県や富山県などが、元日に激しい地震に襲われた。能登半島の一部の地域では、震度7を観測。一時は大津波警報が発令された。石川県の発表によると、1月14日の時点で221人が倒壊した家屋の下敷きになるなどして死亡し、24人が行方不明になっている。2万人を超える人々が避難所で暮らしている。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心からお見舞いを申し上げたい。
 雪が積もり、1年間で寒さが最も厳しい時期に、避難所での生活を強いられる市民たちの苦難は、想像を絶する。私は石川県からの映像を見ながら、激しい既視感に襲われた。それは、1995年3月に阪神淡路大震災の現場で見た光景である。私は地震発生から10日後に、現場に出張した。当時はミュンヘンから関西空港への直行便があった。1982年から5年間、事件記者として働いた神戸は直下型地震に襲われて、変わり果てた姿になっていた。
 中央区の生田神社の周辺の繁華街では、ビルが横転したり、1階部分がつぶれたりしており、無傷の建物はほとんどなかった。通称フラワーロードに面した旧神戸市役所では、中層階がペシャンコになっていた。この地域では、国際会館など他のビルでも中層階が破壊される被害が見られた。地震は早朝に起きたため、これらのビルで働いている人はいなかったが、もしも震災が昼間に起きていたらと思って、ぞっとした。
 地震発生から10日後には水道がまだ復旧しておらず、自衛隊の給水車が市民に水を供給していた。通電は再開していたが、崩れた家屋に電気が通じ始めた後に火災が発生することがあり、消防車のサイレンが響き渡っていた。
 私は中央区から、西へ向かって歩いた。兵庫区では、地下鉄の駅の天井が崩れて、道路が大きく陥没していた。私が最も衝撃を受けたのは、長田区だった。この区には、小さな店舗や住宅が密集した地域があった。この地域では激しい火災が起き、焼夷弾による空襲を受けたかのように、焼け野原になっていた。商店街でも大半の店舗が焼失し、アーケードの骨組みだけが残っていた。
 私は今回の能登半島の震災で、大規模な火災に襲われた輪島市の「朝市通り」の焼け跡の映像を見て、29年前に目撃した長田区の惨状をまざまざと思い出した。だが、人々の努力の結果、神戸は見事に再建された。被災地の人々の生活が一刻も早く改善され、地域の復興が始まることを切に祈る。

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