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新ヨーロッパ通信

蘇えるサラエボ

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 今年8月、18年ぶりにボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに行った。私は2001年~05年にかけて、仕事のために毎年この町を訪れていた。当時サラエボには、1992年から95年まで続いたボスニア内戦の傷痕が深く残っていた。私が泊まったホテルの南側には、砲撃で破壊された議会の高層ビルの焼け跡が、墓標のようにそびえ立っていた。
 サラエボは盆地だ。セルビア系武装勢力は周囲の山に陣取って砲撃・銃撃を加えた。多くの建物の壁には、無数の銃弾の痕が残っていた。水道・電力も遮断されたため、人々は狙撃兵に射殺される危険を冒して、井戸に水を汲みに行かなくてはならなかった。1425日間の包囲戦で、約1万1000人が死亡し、約5万人が重軽傷を負った。ボスニア内戦は東西冷戦後の欧州を襲った最初の悲劇だった。
 今回訪れたサラエボは、見違えるようだった。議会の高層ビルの焼け跡は美しく修復され、多くの建物の壁の弾痕も埋められていた。新しいレストラン、バー、喫茶店が開店していた。イスラム教寺院が立ち並ぶ中心街は、トルコや中東諸国からの観光客でごった返していた。18年前には砲撃による火災のために廃墟となっていた「ホテル・ヨーロッパ」も修復されていた。19世紀に開館した大学図書館は、イスラム風建築様式を取り入れた美しい建物だったが、セルビア系武装勢力の攻撃を受けて全焼した。だが、この歴史的建築物も、今ではまるで新築の建物のように再建され、市役所として使われている。
 2003年にはボスニア・ヘルツェゴビナの失業率は28.4%だったが、昨年は14.1%に下がっている。
 ただし、人々は悲惨な包囲戦を忘れはしない。マルカレ青果市場の地面には、砲弾が炸裂してアスファルトを引き裂いた痕が残っている。この市場では、1994年2月5日にセルビア系武装勢力が撃った砲弾によって買い物客ら68人が死亡し、144人が重軽傷を負った。この市場は1995年8月28日にも砲撃を受けて、43人が死亡し89人が負傷した。市場には慰霊碑が建てられ、背後の壁には死者の名前が記されている。この「虐殺」は、米軍がセルビア系武装勢力に対する空爆を始め、内戦終結に通じるきっかけとなった。
 若者たちの嬌声が響くサラエボの道を歩きながら、私は余りにも多くの無辜(むこ)の民の血が流れたことを忘れることができなかった。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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