包囲下のサラエボ・生命のトンネル
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの南西部。国際空港近くの民家の裏庭に、小さなトンネルの入り口がある。これは、1992年から95年までサラエボが包囲されていた時に、町と外部を結ぶ唯一のトンネルだった。セルビア系武装勢力が町を包囲していたため、ボスニア人たちは武器・弾薬・食料などの補給を断たれた。セルビア系武装勢力は空港の使用を、国連軍だけに許した。空港の滑走路を横切ろうとする者は、セルビア側の狙撃兵に射殺された。
そこでボスニア人たちは93年4月から、密かに空港の地下に約800メートルのトンネルを掘り始めた。空港の南側は包囲陣の中だったが、空港の北側はセルビア系武装勢力による包囲の外だった。このため、ボスニア人たちはトンネルが完成すると、武器・弾薬・食料・医薬品・たばこ・ディーゼル燃料などを包囲下の町に運んだ。幅は1メートル、高さは1.5メートルしかなかった。土が崩れるのを防ぐために、天井と側面は木の板で補強された。最初は兵士たちが荷物を背負って運搬した。その後は運搬効率を高めるために、細い線路を敷いて、トロッコで荷物を運んだ。戦闘で重傷を負った兵士も、担架に載せられて、このトンネルから包囲網の外へ搬送された。
トンネルが完成してからは、1日当たり約4000人の兵士や市民が通過し、約10トンの物資が町に運び込まれた。包囲陣の外に出るには、軍の許可証が必要だった。
ボスニア人たちは、トンネルの入り口がある民家に行く際には、狙撃兵に撃たれないように、夜間に頭をかがめて、長い塹壕を通らなくてはならなかった。
私の友人のボスニア人は、家族と共にこのトンネルを通って包囲下のサラエボから脱出し、ウィーンに疎開した。別の知人は、トンネルを通って外国での会議に出席し、再びトンネルを通って包囲下のサラエボの家族の所へ帰ってきた。
メディアも含めて、トンネルの存在についてはかん口令が敷かれた。セルビア系武装勢力は、内戦が終わるまでトンネルに気がつかなかった。もしも発見していたら、トンネルの入り口がある民家を徹底的に砲撃して、破壊しようとしていたはずだ。
トンネルの入り口がある民家には、博物館が設置されている。トンネルは最近起きた落盤のために通れなくなっている。しかし、近くに模擬トンネルが作られている。私も頭をかがめて中を歩き、多くの市民の生命を救ったトンネルに思いを馳せた。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92