アナログ社会・ドイツ(下)医療篇
ドイツでデジタル化が遅れているのは、電力の小売りだけではない。医療現場は、今でも紙の洪水である。この国では個人情報の保護を重視し過ぎた結果、米国やイスラエルなどでは当たり前の電子カルテが使われていない。電子カルテを使えば、専門医は患者の病歴、手術歴、検査歴、既往症、常用している薬、アレルギーの有無、麻酔薬に対する反応などの重要な情報や、レントゲン、MRI(磁気共鳴画像)、内視鏡の画像などを一瞬のうちに共有することができる。患者はスマートフォンやパソコンで、診断書などを見ることができる。
多くの病院、医院では紙のカルテが使われている。専門医と手術の執刀医、検査機関などの間の連絡もオンライン化されていない。患者はMRIの画像が入ったCD―ROMを持って、専門医の間を行ったり来たりする。ある専門医は、検査機関が撮影したMRIの画像を見る装置を持っていない。彼は患者を検査医に紹介する際に、紹介状を紙に手で書いている。検査や手術の承諾書なども手書きだ。
デジタル化が進んでいないので、患者は検査機関がプリントアウトして担当医が署名した鑑定書をスキャンして、メールに添付して別の専門医に送るような、面倒くさいことが毎日行われている。
2020年のコロナ・パンデミックの時に、ある製薬会社の幹部は、「ドイツには電子カルテがなく、専門医の間で重症患者に関する情報の共有が遅れたために、本来は救われるべき命が失われたケースがある」と語っていた。
薬の処方箋も、紙だ。医師の署名がある処方箋を薬局に持っていき、薬を買う。医療費の精算でも、紙を大量に消費する。私はドイツで民間の健康保険に入っている。診療が終わると、医院から請求書が郵便で送られてくる。患者は医療費の請求書に金額などを記入して署名し、請求書と共に保険会社に郵送する。保険会社の精算結果も、郵便で送られてくる。保険会社から医療費が自分の銀行口座に振り込まれたら、患者はその金額を医師の銀行口座に振り込む。私は1990年からドイツに住んでいるが、このシステムは34年間一度も変わっていない。
ドイツ政府は、2023年12月にようやく重い腰を上げ、25年1月に電子カルテを導入することを決めた。全ての公的健康保険の加入者は、電子カルテをもらえる。民間健保も加入者に電子カルテのサービスを始める。アナログ帝国ドイツに、デジタル化の曙光が射してきた。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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