うず
公衆電話の必要性
数日前、大型スーパー内を歩いていたら、「公衆電話はどこでしょう」と老婦人から声を掛けられた。数年来公衆電話は使用していなかったが記憶に残る場所に案内すると、撤去されていた。老婦人は、ポケットから電話番号が書かれた小さい紙を取り出し、私の携帯電話でここにかけてほしいと頼んできた。一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、思い切ってかけてみると、電話に出た男性は老婦人の息子で、はぐれてしまったとのこと。場所の詳細を説明すると、「すぐ向かう」と言われたので、老婦人に「息子さんが来ますから、ここにいてくださいね」と伝え、その場を離れた。しかし、数分後、私の携帯電話に老婦人の息子から「母が見当たらない」と電話が入った。既に老婦人と離れていた私にはどうすることもできないので、電話は切れた。
そこから私は自分の中途半端で詰めの甘い親切について数時間悩むことになった。「見つからなかったらどうしよう」「認知症を理解していなかった」「息子さんが来るまで待っていれば」とさまざまな考えが頭を駆け巡り、解放されたのは息子さんから「親切にしてくれてありがとうございました。会えました」というショートメッセージをもらってからだった。
思い返せば、携帯を持たない老婦人は、公衆電話という言葉を何回も私に言っていた。能登半島地震では携帯電話や固定電話までもが不通になり、発災直後は公衆電話が唯一の連絡手段になった地域もあったという。携帯電話の普及に伴って、全国的に台数が激減している公衆電話。その存在意義について今一度考える必要性があるのではないかと思った。(みれい)