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昭和という時代の輝き(1)

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 昨年、「日本の2023年の名目GDPがドイツに抜かれた」というニュースが流れた。昭和時代に生まれた人はこのニュースを聞いて、一抹の感慨を抱いたのではないだろうか。私もその一人だ。日本が名目GDPで第3位から第4位に転落したという言葉には、一時代の終わりを示す響きがある。
 日本とドイツにはいくつかの共通点がある。両国は共に無謀な戦争を始めて、敗れた。両国は第二次世界大戦で日独伊防共協定を結び、同盟国となった。日独は周辺の国々を侵略して多数の犠牲者を出し、兵力・物量で勝る連合国に対して勝ち目のない戦いを挑んで無条件降伏した。ドイツは軍人・民間人合わせて約700万人、日本は約300万人の死者を出した。多くの大都市が連合軍の空襲で焦土と化し、産業は壊滅状態になった。
 だが、戦後には両国とも、勤勉実直な国民性、物づくりにかけるクラフツマンシップ(職人気質)、創意工夫を発揮して焼け跡から這い上がり、奇跡的な経済復興を実現した。ドイツは米国とソ連の冷戦の影響で、国土を東西に分割される憂き目を見たが、日本は分割を経験せずに済んだ。だが、日本も西ドイツと同じく東西冷戦では米国の陣営に組み込まれ、共産主義陣営の拡大を食い止める防波堤の一部になった。米国からの援助や戦争による特需も、日独の復興を加速する追い風となった。
 日本の名目GDPが西ドイツを追い抜いた1960年代は、日本が経済大国の仲間入りをした時代だった。64年には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通した。どちらも、焼け跡から不死鳥のように蘇った日本の高度経済成長を象徴する出来事だった。
 当時私は5歳だった。2Kの団地に4人住まい。まだ自分でダイヤルを回す電話機はなく、交換台を通じて通話先につないでもらった。テレビの画面は白黒で、真空管が使われていた。1960年に私が入った小学校では、歩くと階段がギシギシ音を立てる木造校舎が使われていた。廊下には、木の床を磨くためのワックスの匂いが常に立ちこめていた。給食では、生暖かくてまずい脱脂粉乳が出た。脱脂粉乳は、巨大なバケツのような容器からひしゃくでアルミのお椀に注がれた。瓶入りの牛乳はまだ給食に出されなかった。
 今では想像もできないが、東京の国鉄(今日のJR)の中央線やバス、地下鉄に冷房はなかった。大汗をかきながら我慢するのが当たり前だと思っていた。
 (つづく)
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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