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新ヨーロッパ通信

昭和という時代の輝き(2)

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 私は昭和34年(1959年)に生まれた。このころの日本は、まだ太平洋戦争の残り香を引きずっていた。新宿駅西口の小田急デパート前の路上では、旧日本軍の戦闘帽をかぶり、白い服を着た義足の「傷痍軍人」と称する人々が首を垂れて物乞いをしていた。60年代の日本は今に比べるとはるかに貧しかった。だが、社会には、「これから日本はどんどん豊かになる」という楽観主義があふれていた。
 小学校の校舎は鉄筋コンクリートになり、給食には脱脂粉乳ではなくガラス瓶入りの牛乳が出るようになった。自宅の白黒テレビがカラーテレビになった。私の両親も、2Kの団地を出て2階建ての家に引っ越した。家の前の道は雨が降ると水たまりができる砂利道だったが、やがてアスファルトで舗装されて歩きやすくなった。
 1964年には東海道新幹線が開通し、東京五輪が開催された。日本の名目GDPが西ドイツを抜いた68年から2年後には、大阪で日本初の万国博覧会が開かれた。当時小学3年生だった私は、夏休みに家族と共にうだるような暑さの万博会場を訪れた。ソユーズなどのロケットが飾られたソ連館や月の石が展示された米国館には、炎天下で2時間待たないと入れなかった。私は米国やドイツ、ソ連などが日本での初めての万博に豪華なパビリオンを出展したことに誇りを感じた。初めて「日本の外にはさまざまな国があるんだ」ということに目覚めた。当時の私には大阪万博は心がワクワクするようなイベントだった。
 大阪万博の3年後にはフランスのランブイエで第1回先進国首脳会議が開かれ、アジアからは日本だけが参加した。多くの日本人がこのことを誇りに感じた。今日に至っても、主要7カ国(G7)首脳会議に参加するアジアの国は日本だけだ。
 高度経済成長期には人口も増えた。総務省によると、敗戦の年の日本の人口は7199万人だった。人口はその後急激に増加し、2004年には1億2784万人でピークに達した。77.6%の増加である。
 1960年代、70年代の日本は輝いていた。だからこそ、高度経済成長期の「元気な日本」を体験した人の中には、23年に「日本の名目GDPがドイツに抜かれた」と聞いて、感慨を抱いた人が多かったに違いない。わが国の新聞社や放送局がこのニュースを比較的大きく取り上げたのは、メディアの編集責任者たちの中に、「1960年代以来続いていた日本の栄光の時代が終わったことを象徴するニュースだ」と感じた人が多かったせいかもしれない。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)

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