パリ都市計画の父・オスマン
今年2月に、ミュンヘンからパリへ出張した。気候変動のためか春のように暖かかったので、凱旋門がある西部の第8区から、中心部の第10区まで3時間歩いた。この町の特徴は、凱旋門がそびえるシャルル・ドゴール広場のように、大通りが放射状に伸びている広場がいくつもあることだ。オペラ座があるオペラ広場、オベリスクが立っているコンコルド広場、レピュブリーク(共和国)広場などへ行けば、さまざまな方角へ移動することができる。
町並みは主に19世紀に建てられたベージュ色の建物が中心で、大半の地区では色調や建築様式、建物の高さの統一が取れている。街の景色が秩序だっているのだ。東京や香港のようにさまざまな高さや色彩のビルが雑然と並ぶ光景はない。パリの中心街には高層ビルは建てられておらず、都市の景観が守られていることを感じる。高層ビルがあるのは南部のモンパルナスか、西部のデファンス地区など周辺部だけだ。
この美しい景観を演出したのは、19世紀の政治家ジョルジュ・ユジェーヌ・オスマンである。彼はナポレオン三世統治下のフランスで、パリ市を含むセーヌ県知事に就任した。
彼は狭い路地を取り壊して、広い大通りを東西南北に建設した。凱旋門周辺の放射状の道も、オスマンの都市計画の結果である。建物の高さを統一させて景観の秩序を実現した他、ルーブル宮やオペラ座の建設も進めた。ルーブル宮やチュイルリー公園の北側の広い道路・リボリ通りも、オスマンの指示で作られた。さらにパリの衛生状態を改善するために、上水道と下水道網も整備した。彼の功績を称えて、第8区と第9区を結ぶ道は、「オスマン大通り」と名付けられている。
パリの美しさのもう一つの理由は、戦災を免れたことだ。フランスはドイツ軍の電撃作戦によって占領されたが、ここでは激しい戦闘は行われなかった。1944年に連合軍がパリに迫った時、ヒトラーはパリに駐屯していた占領軍指揮官のフォン・コルティッツ将軍に対し、パリの橋や歴史的建築物を破壊して撤退するように命じた。しかし、幸いフォン・コルティッツ将軍は「自分の名前がパリを破壊した悪人として歴史に残るのは嫌だ」と考えて、この命令を実行しなかった。
これに対しポーランドの首都ワルシャワは、ナチス・ドイツ軍によって徹底的に破壊されたため、19世紀の建物はほとんど残っていない。私はワルシャワに行くたびに、「パリが破壊されなくてよかった」と痛感する。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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