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悲劇の戦艦・陸奥が眠る海(下)

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 1943年6月に、瀬戸内海の周防大島の北で戦艦・陸奥が大爆発を起こして沈没した。その原因は、今日に至るまで特定されていない。作家吉村昭氏は、79年に発表した著作「陸奥爆沈」の中で、日本海軍の査問委員会が人為的なサボタージュの疑いで調査を行っていたと指摘している。
 その理由は、日本海軍では過去において、乗組員の過失または放火で軍艦が沈んだケースが複数回起きていたからである。例えば、1905年から18年までに、戦艦や巡洋艦で火薬庫で火薬が爆発する事故が6回発生し、4隻が沈没している。このうち、05年に起きた戦艦・三笠の爆発事故は、火薬庫で水兵たちが行った酒宴が原因だった。また、12年に装甲巡洋艦・日進で起きた爆発事故は、乗組員による放火だった。また、06年にも巡洋艦・磐手で、火薬庫を爆破して自殺を図った水兵が犯行直前に取り押さえられるという事件が起きている。この水兵は金銭を詐取した疑いで尾行されていた。
 吉村昭氏によると、戦艦・陸奥では時折金や時計が盗まれる事件が起きていた。上層部は、呉市の遊郭などで娼妓に小遣いを振舞い、金遣いが荒かったある二等兵曹に嫌疑をかけ、身辺調査を始めていた。その矢先に陸奥の爆沈事故が起きた。この二等兵曹が住んでいた第13居住室は、爆発が起きた第三砲塔の下にあった。海軍のダイバーは居住室から5人の乗組員の遺体を回収したが、二等兵曹の遺体を見つけることはできなかった。査問委員会の調査はそこで途切れた。彼が爆発を引き起こしたのかどうかは、永遠に解明できなくなった。
 1971年、サルベージ会社が海底に横たわっていた陸奥の第三砲塔など、艦体の一部を引き上げた。28年ぶりに洋上に姿を現した41センチ砲の巨大な砲身からは、大量の海水が噴き出した。周防大島の東部の伊保田には、陸奥に関する資料館がある。資料館は、陸奥が沈没した海域から4.5キロの所にある。館内には、艦内から見つかった乗組員たちの食器や時計、拳銃などの遺品が展示されている。艦と運命をともにした多数の若者たちの写真が、来訪者たちを見つめている。この資料館の前の丘の上には、艦首の一部や、14センチの副砲、スクリューなどが展示されている。さびに侵食され、二度と咆哮することがない14センチ砲は、今も陸奥が眠る海域の方向に向けられている。
 美しい瀬戸内海の波の音は、81年前に海底に引きずり込まれた多くの若者たちのための鎮魂歌であるかのように思えた。
 (参考資料:陸奥爆沈・吉村昭著)
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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