国家が文明を捨てる時
先日、ロシア人の音楽家のチェロの演奏を聞いていたら、ふと次のような考えが浮かんだ。
欧州には20世紀以降、少なくとも一時的に、自分の意志で文明世界を離れた国が二つある。一つは、1933~1945年のヒトラーに率いられたドイツ。もう一つは、2022年以降のロシアだ。
誤解を避けるために申し上げると、私はロシアをナチスドイツと同列に並べようとしているわけではない。
ナチスのユダヤ人虐殺は、人類の歴史の中で比較するものがない蛮行である。ナチスは、当時欧州に住んでいたユダヤ人を根絶やしにする計画に着手し、約600万人のユダヤ人を殺害した。女性、子どもも容赦なく殺した。アウシュビッツなどの「絶滅収容所」にガス室のある工場のような設備を作り、流れ作業でユダヤ人を殺害した。世界でこのような方法で虐殺を行ったのはナチスドイツだけだ。当時、ドイツは自らの選択で、文明世界を去った。
もちろん、ロシアは、殺人工場を作ってウクライナ人を根絶やしにしようとしているわけではない。しかし、ロシアは、ウクライナから挑発されていないのに、兵士だけでなく市民をも無差別に殺傷している。巡航ミサイルで団地を攻撃して市民を殺害したり、占領した地域で住民を拷問したり、女性に性的暴行を加えたりすることは国際法違反だ。多くの子どもたちが親を殺されたり、地雷で手足を失ったりしている。
現在ロシアは、ウクライナ人を冬の寒さで苦しめるために、巡航ミサイルで暖房のための施設や発電所を狙って攻撃している。一時は、1000万人もの市民が電気のない暮らしを強いられた。電気がなければ水道も使えない。ロシア軍は、エネルギーのインフラを故意に破壊することによって、冬の寒さを武器として使おうとしている。ロシアがウクライナの劇場や博物館を破壊したり、協力を拒んだウクライナ人指揮者を射殺したりしていることは、同国の文化を壊そうとしていることを意味する。
つまり、ロシアはナチスとは別の意味で、文明世界を自らの意志で去った。少なくとも、今のところ国際社会は、ロシアを信頼することができない。ロシアはかつて、優れた音楽や文学を生んだ国として知られた。輝かしい伝統が、毎日ロシア人自らの判断で、踏みにじられつつある。
欧州ではわずか100年の間に、「文明否定国」が二つも現れたわけだ。人類は進歩するのではなく、退歩することを宿命づけられた存在なのだろうか?
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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