メルケル回顧録の見どころ(下)
メルケル前首相の回顧録の中で最も興味深い箇所の一つは、2008年にブカレストで開かれた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議の舞台裏だ。NATOは共同声明の中で、「われわれはウクライナがNATOのメンバーになることで合意した」と明記した。だが、NATOは加盟時期を明らかにせず、ウクライナにメンバーシップ・アクション・プラン(MAP)のステータスを与えることを拒否した。この地位を与えられた国は、将来NATOに加盟できる可能性が高くなる。
当時、NATO加盟国の中でウクライナにMAPを与えることに最も強く反対したのがメルケル氏だった。当時の米国大統領のブッシュ氏は、ウクライナにMAPを与える意向だった。メルケル氏は回顧録の中で、「米国のイラク侵攻時に、独仏は米国と対立しNATOに深刻な亀裂が生じた。私はウクライナをめぐる議論が、再び米欧間に亀裂を生む危険も強く意識していた」と述べている。
メルケル氏がウクライナへのMAP供与に反対した最大の理由は、ロシアを挑発することへの懸念だった。同氏は「クリミア半島にはロシア海軍の黒海艦隊の基地がある。かつてNATO加盟を希望した国の中で、ロシアにとってこれほど重要な軍事拠点を抱えた国はなかった」と記している。つまり、メルケル氏は、ロシアの黒海艦隊の基地を持つ国をNATOに正式に招聘することで、ロシアが激しく反発することを恐れた。彼女は「NATO加盟は、加わる国の安全だけでなく、NATOの安全も強化しなくてはならない」と言う。ブッシュ氏はメルケル氏の主張を受け入れ、ウクライナにMAPを与えず、共同宣言に「ウクライナはNATOのメンバーになる」という曖昧な一文を加えるにとどめた。ウクライナ政府は門前払いを受けた。
メルケル氏は、ウクライナのMAP拒否にこだわった理由の一つとして、07年のミュンヘン安全保障会議でプーチン大統領が行った警告を挙げている。この時プーチン氏は、「米国による一極支配」とNATOの東方拡大を強く批判した。
メルケル氏は回顧録の中で、「プーチン氏は、ソ連が超大国として米国と互角に対峙していた時代の復活を夢見ている」と語る。ある時プーチン氏はメルケル氏に、「あなたはいつかはドイツの首相の座から降りる。そうすればウクライナはNATOに加盟する。私はウクライナのNATO加盟を絶対に阻止する」と語った。
今もウクライナはNATO加盟を切望しているが、独米は反対している。ゼレンスキー氏の悲願達成は難しそうだ。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92