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新ヨーロッパ通信

【 新ヨーロッパ通信】ヒムラーの別荘がホテルに

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 ミュンヘンから車で、アルプス山脈の方向に50分も走ると、山に囲まれたテーゲルンゼーという美しい湖に到着する。この湖に面したグムントという村に、古めかしいバイエルン風の家がある。約2万平方メートルの、菩提樹などがうっそうと茂る敷地に建てられた家は、「ブライブ」という名前のホテルになっている。
 宿泊客たちは野鳥のさえずりを聞きながら喫茶店のテラスでコーヒーを飲んだり、森の中にあるサウナで汗を流したりしている。
 この家は1892年に建てられ、当初ミュンヘンの実業家や芸術家たちが住んだ。この館にはリンデンフィヒトという名前が付けられた。
 1933年には国家社会主義労働者党(ナチス)がドイツで政権を取った。ナチスはミュンヘンで旗揚げしたことから、ドイツ南部のバイエルン州出身者が多かった。そのうちの一人が、親衛隊長官のハインリヒ・ヒムラーだ。ミュンヘン生まれの彼は、1934年にリンデンフィヒトを購入し、別荘にした。
 親衛隊は、当初アドルフ・ヒトラーの護衛を務めていたが、急激に勢力を拡大した。やがて共産党員や社民党員、反体制派などの取り締まりや摘発、強制収容所の建設、運営、ユダヤ人やロマ民族などの虐殺を行うようになった。つまり、親衛隊はナチスで最も強力かつ凶悪な暴力装置だった。その頂点に立つヒムラーは、ゲルマン民族至上主義に凝り固まった、冷酷な性格の持ち主だった。
 ヒムラーは仕事の合間を縫って、妻と娘とともにグムントの別荘で時を過ごし、時には猟銃を持って狩りに出掛けた。1945年には連合軍による爆撃が増えたため、ヒムラーは別荘の庭に防空壕を作らせた。防空壕は今も残っている。また、ヒムラーは別荘を改築させた時に居間に暖炉を作らせたが、この暖炉は今も喫茶室に残っている。建物はグムントに進駐した米軍の司令部としても使われた。
 ヒムラーは大戦末期にひそかに連合軍と接触して講和を試みたが失敗。ベルリンからドイツ北部に逃亡して、英国軍の捕虜となった。彼は尋問中に青酸カリのカプセルを飲み込んで、自殺した。
 ヒムラーの元別荘をホテルに作り直したドイツ人経営者は、「単なる保養地ではなく、泊まる人がドイツの暗い歴史と向き合う場所にもしたい」として、入り口の壁にドイツ語と英語で、この館が親衛隊長官の別荘にもなったいきさつについての説明文を掲げている。
 このように、ドイツ南部のあちこちには、今なおナチスによる恐怖支配を思い起こさせる建物が残っているのだ。
 (文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
 筆者Facebookアカウントhttps://www.facebook.com/toru.kumagai.92

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