函館と消火栓
私は今年の春、53年ぶりに函館の土を踏んだ。上野発の夜行列車ではなく、東京駅発の新幹線は、海底100メートルの所に掘られた青函トンネルを猛スピードで通過し、わずか4時間20分で函館に着く。便利だが、距離の感覚を喪失してしまう。
函館では、観光客が多い一部の地域を除くと空き地や駐車場が目立ち、少し寂しげだった。私はこの街を歩いている時、道端に黄色く塗られた古めかしい消火栓が立っているのに気付いた。
この消火栓は、頑丈な造りだ。ポンプ車からの消火用ホースを取り付ける口が3カ所に付いている。米国の町で見掛けた消火栓に似ている。東京では消火栓は四角いマンホールの下などにあるので、このような消火栓は見掛けない。
函館にこのような目立つ消火栓がある理由は、この町が過去に繰り返し大火に襲われたからだ。函館は、明治4年(1871年)以来、25件もの大火を経験してきたが、特に昭和9年(1934年)3月21日に発生した大火では、強風にあおられた火によって、約1万1100棟の建物が焼失した。大火災は町の3分の1を焼き尽くした。市民約2100人が犠牲になり、同市の火災で最悪の惨事となった。
函館市当局は昭和9年の大火の経験から、米国から消火栓に関する資料を取り寄せ、独自に設計、製造して昭和12年(1937年)以来約2000基を設置した。目立つ黄色で塗ってあるので消火栓を見つけやすい他、マンホールのふたを開けずに迅速に消防車のホースを接続することができる。
私が函館を訪れた時にも、一日中海から強い風が吹き付け、「こんな時に火事が起きたらさぞ被害が大きくなるだろうな」と思った。この町では建物の間に空き地があり、そこに松の木などが植えられている。このグリーンベルトも、火災が起きた時に延焼を防ぐための備えだ。函館市当局は明治時代以来、大火が起きるたびに道路の幅を広くするとともに、和洋折衷の耐火建築を増やしてきた。例えば、東本願寺函館別院は、明治40年(1907年)の大火で焼失した後、大正4年(1915年)にコンクリートの防火仕様で再建された。コンクリートで作られた、日本最初の仏教寺院である。
私の亡父は、昭和4年に函館で生まれた。彼の家族が住んでいたのは函館の郊外の湯の川という地域だったので、幸い無事だった。当時5歳だった父は、函館を焼く業火をどんな思いで見たのか。今となっては、尋ねる術もない。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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