故宮博物院・文物の数奇な運命
台北の中心部から地下鉄とバスを乗り継いで約30分。同市北部の丘陵地帯に、国立故宮博物院がある。パリのルーブル博物館、ロンドンの大英博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館に並ぶ、世界屈指の博物館だ。その特徴は、収集対象を約4000年の中国文明の文物に限っている点だ。
陶器、仏像、彫刻、書画など収集品の数は約68万点に上るが、訪問者が見られるのはその一部にすぎない。文物の約90%が、中国最後の王朝である清王朝のコレクションだ。文物の多くは、かつて歴代の皇帝など限られた人しか見ることができなかったものである。
殷の時代(紀元前17世紀~11世紀ごろ)に作られた青銅盤や紀元前9世紀に作られた鼎(かなえ)を見ると、中国文明の厚みに圧倒される。鼎の内側には、素晴らしい書体で漢字の文章がびっしりと刻み込まれている。17世紀の清朝で作られた、豚肉の切り身にそっくりの肉形石など、有名な文物もある。
これらの文物は北京の紫禁城に保管されていた。清朝最後の皇帝・溥儀が紫禁城から退去させられた後、北洋軍閥が1925年に北京で公開した。だが、日中戦争が激化したため、蒋介石率いる国民政府は1933年から文物を戦火から守るべく、1万箱を超える箱に詰めて、上海や南京などに避難させた。収蔵品は四川省や重慶などを転々とした。
第二次世界大戦後には、国民党軍と共産党軍の間の内戦が激化した。このため蒋介石は1948年の秋以降、文物を貨物船で台湾に運んだ。1965年に、現在の建物で文物の公開が始まった。蒋介石は、台湾への退避を一時的なものと考え、「大陸反攻」によって北京に帰還することを考えていた。その時には、これらの文物を再び北京の紫禁城で展示するつもりだった。実際、北京の紫禁城に行くと、建物は豪華だが、展示物が少ないという印象を受ける。その理由は、大半の文物が北京に戻らず、台湾に移送されたからだ。つまり、これらの文物は、国家の正当性、主権性を主張する遺産という意味も持つ。だからこそ、蒋介石は、文物をわざわざこの島に運ばせた。
習近平国家主席は、いつの日か台湾を香港のように「回収」して、これらの文物を北京で展示させたいと考えているに違いない。一方、民主化が進む台湾は、ますます「中国と一線を画す主権国」という性格を強めている。戦火を逃れて台湾にやってきた故宮博物院の文物は、今後どのような運命をたどるのであろうか。
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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