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特集

【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】  菓祖の縁(阪神・淡路大震災)

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2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。

菓祖の縁(阪神・淡路大震災)



「鎮魂の祈り」 碑



【保険毎日新聞 2025年2月28日 掲載】

兵庫県の東端に尼崎市がある。その尼崎の中ほどに立花という地域があり、阪神・淡路大震災時には大きく揺れ、甚大な被害が出た。

尼崎は古来、瀬戸内海に面していたことから「海人崎(あまがさき)」と呼ばれて栄えてきた。古く漁民のことを「海人(あま)」と呼んだことが現在の尼崎の地名の発端(由来)となったとされる。平安時代末期から鎌倉時代にかけてのころのようだ。

立花の由来も、古来の歴史にひもづいている。古事記、日本書紀の時代だ。垂仁天皇の時代、田道間守(たじまのもり)なる人物がいた。彼は天皇の命により不老長寿の霊薬を求めて常世(とこよ)の国へと渡った。苦節十年、彼が持ち帰ったのが橘とされる。その功績から彼は後に「菓子の祖(菓祖)」と称えられた。この橘が平安時代に尼崎北部で栽培されたのをきっかけに、それが現在の立花の地名になったと伝承されている。菓祖との縁が町を育ててきた。

地名の話が長くなったが、この立花地区。阪神・淡路大震災では甚大な火災被害に見舞われている。尼崎市の震度は推定6。当時、尼崎市には気象庁の施設がなく、市にも地震計が設置されていなかったことから、あくまでも推定となっている。

尼崎市では市全体で木造住宅の倒壊も多いが、火災も市内の8カ所で発生。約2500平方㍍を焼損させた。中でも大きな火災は、この立花で発生している。住宅3棟、共同住宅2棟が全焼、11人がこの火災で亡くなっている。

阪神・淡路大震災における尼崎市の死亡者、当初の27人の死亡原因を見ると、圧死や脳挫傷、外傷性胸部圧迫症、窒息死が見られる一方、焼死者のほとんどが立花町の数字だ。それだけに、この地域に火災が集中していたことが分かる。犠牲者は高齢者も多く、倒壊する住宅の中で逃げ切れなかったのだろうか。身につまされる思いだ。

JR立花駅の東南、尼崎市役所に隣接して橘公園がある。野球場も備え、広場には美しい花時計が時を刻む伸び伸びとした公園だ。その一角に、阪神・淡路大震災の石碑がある。「鎮魂の祈り」と銘打たれた碑には、「一九九五年一月十七日 午前五時四十六分に発生した阪神淡路大震災によって犠牲になられた尼崎市在住の四十九名の御霊に対し永遠の祈りを捧げます」と尼崎琴の浦ライオンズクラブの名で追悼文が刻まれている。

古来、交通の要衝として繁栄を遂げてきた尼崎だが、栄華の陰で手にしてこられなかったものがある。それは、過去からの大地震の記憶だ。この地は1596年の慶長伏見地震以来、数百年もの間、内陸直下型の大地震をほぼ経験してこなかった。阪神・淡路大震災は、そうした都市の歴史の隙間を突いた。
 (森隆/日本ペンクラブ会員)



花時計が時を刻む橘公園



【地震メモ】
阪神・淡路大震災における尼崎市の死者は49人。負傷者は約7100人を超えた。海岸に近い築地地区では液状化現象も発生した。市全体の建物被害は全壊約5700棟、半壊約3万6000棟、一部損壊約3万5000棟に及ぶ。河川の防潮堤がひび割れて漏水が発生したり、水位の異なる河川の間を仕切る閘門(こうもん)のワイヤー切断が発生し作動が一時停止するなど、水に対するリスクも表面化した。

【参考】
阪神・淡路大震災「尼崎市の記録」、図説「尼崎の歴史」、尼崎市役所ホームページ





【アクセス】
JR東海道線立花駅 から約1・5㌔



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