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【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】 失われた笑顔(東日本大震災)

2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。

園児たちのバスが見つかった南浜に建てられた慰霊碑
失われた笑顔(東日本大震災)
【保険毎日新聞 2025年4月2日 掲載】
「春の足音が近づいていた頃 愛する我が子が明日をも見れず突然旅立つ 暗闇さまよう私の心に亮光降り注ぎ 再びあなたと私結ばれる 太陽の下で一緒に見た梨の花・桜の香り懐かしく思い出される あなたの笑顔にまた会いたい」(石巻南浜東日本大震災慰霊碑から引用)。
東日本大震災で壊滅的被害を受けた石巻南浜で、幼稚園に通う子を失った遺族が詠んだ詩だ。この詩の中には亡くなった子どもたちの名が刻まれているという。
平成23(2011)年3月11日。三陸地方は小雪がちらつく寒い一日を迎えていた。石巻の気温も摂氏2度前後。吐く息も白くなる午後だった。14時46分、最大震度6強の強い揺れがこの町を襲った。そのほんの1時間後、悪夢の大津波が押し寄せて多くの人々が命を落とす惨劇が広がる光景を、誰が想像できただろうか。しかし、大津波は地震から約30分後に金華山沖を過ぎ、牡鹿半島を迂回し、石巻市街地沿岸を狙っていたのだ。
15時45分ごろ、ついに大津波は壁となってその黒々とした姿を現した。浸水深は5㍍から7㍍以上。辺り一面を大海原と化した津波はさらに旧北上川を遡上し、南浜の街を洗濯機で洗い流すように跡形もなく破壊し尽くしていった。
園児たちはどうなったのか。その経緯が石碑に認(したた)められている。
防災無線が鳴り響く中、5人の園児たちが次々にバスに乗せられた。幼稚園は安全な高台にある。園児を乗せたバスは海岸沿いの道へとハンドルを切った。バスは寄るはずのない南浜の門脇小学校にも寄ったという。ここでバスを降り高台へと向かっていれば命は失われずに済んだはずだ。事実、門脇小学校の児童たちは高台へと避難し難を逃れている。まさに最後のチャンスを逸してしまった。
押し寄せた大津波は渋滞にはまったバスをのみ込み、その後に発生した大火災はバスを原型をとどめないほど黒く焼き焦がし、園児たちの命を奪った。3日後発見された園児たちはバスの外で抱き合うように倒れていたという。
石碑には両親の悲痛な声が刻まれている。「どんなに怖かったか、どんなに苦しかったか、どんなに熱かったか、その小さく真っ黒に焼けた体は触れるとボロボロと壊れて落ちてしまうので最愛の我が子を抱きしめてあげる事すらできませんでした」と。碑文は、さらに大人の判断一つで守られるはずの命も守れない命になることを強く戒めている。
この日、子どもたちの未来は絶たれた。あの日、元気に出掛けたまま、「ただいま」の声を聞くことができなかった親たち。園児の幼き日の面影が、そのまま時とともに無情に過ぎていく。石碑からは二度とわが子を抱きしめることができなくなった親たちの嗚咽が聞こえてくるようだった。
(森隆/日本ペンクラブ会員)

震災時の石巻 門脇地区
【地震メモ】
マグニチュード9・0を引き起こした東北地方太平洋沖地震。いわゆる東日本大震災だが、石巻市では死者・行方不明者は3600人以上。その9割が溺死だった。幼稚園園児たちが亡くなった石巻南浜の悲劇は裁判にまで発展した。遺族たちが幼稚園側の責任を問うたものだ。この訴訟では園側の過失を認め、震災から約3年半を過ぎた14年12月、仙台高裁で和解が成立した。

【アクセス】
JR石巻駅から約2㌔