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特集

【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】  直下の断層(熊本地震)

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2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。

旧長陽西部小学校跡地に建つ石碑



直下の断層(熊本地震)



【保険毎日新聞 2025年5月20日 掲載】

もし、日常の暮らしが活断層の上に成り立っているとしたら、その不安はいかばかりか。活断層は現在、既知のものだけでも2000ほどあるというが、何しろ地下の世界の話だけに正確な数は専門家でも分からないという。実際、地震後に発見されることも多々あるのが現状だ。

知らず知らず地下に眠る活断層の上に暮らす。ある時、平穏なはずの日々が地震で一変する。その恐怖が熊本地震で現実のものとなった。

2016年4月14日に起きた熊本地震。益城町では震度7を2度も記録する史上初の地震だった。布田川断層帯と日奈久断層帯の二つの断層が隣合わせで走る益城町周辺では地表に現れた断層が畑を走り、住宅を裂いた。さらに、活断層の恐怖は南阿蘇村の旧東海大学阿蘇キャンパスへと伝播した。

旧東海大学阿蘇キャンパスは阿蘇カルデラの中にある。それまでカルデラ内に活断層が存在することは知られていなかった。科学が予見できなかった地震被害でもある。

旧東海大学阿蘇キャンパスは農場や牧場が併設された「牧場・農場一体型キャンパス」として全国に知られていた。学生数は約1000人。上空から見るとY字型をした独特の講義棟(1号館)に特長があった。昭和48(1973)年に完成した建物は鉄筋コンクリート3階建て、高さは鉄塔を含め45・5㍍の規模を誇っていた。その1号棟の真下に活断層が走っていたのだ。

地表に現れた地表地震断層はキャンパス全域を貫いた。その距離は1㌔にも及ぶ。震度6強の強い揺れを引き起こしたこの活断層は正面玄関広場のアスファルトを波打たせ、幾つもの亀裂を生じさせた。亀裂と亀裂の間はめくれ上がり、スクールバスもこの亀裂の中に車輪が落ちて走ることができなくなった。断層が中央部を貫通した1号館では基礎が破壊され、床を損傷させ、柱や壁も破壊、建物自体も屈曲させている。

こうした活断層の直上で建物が被害を受けて残った例は極めてまれなケースだとして、現在、旧東海大学阿蘇校舎1号館と地表断層が地震を後世に伝える震災遺構として保存されている。

この阿蘇キャンパスからほど近い長陽西部小学校廃校跡地に熊本地震慰霊碑が建つ。碑にはこの地震で亡くなった東海大学学生3人の名と地区の66歳の女性の名が刻まれている。碑文は「熊本地震で被災された方々の慰霊と被害を後世に伝え、来るべき災害に備える気持ちを持ち続けるために義援金により建立した」とある。

深い眠りから覚めた熊本の活断層。しかし、日本にはまだ、地下に潜んで出番を待っている活断層がいくつもあるのだ。

(森隆/日本ペンクラブ会員)



まっすぐに校舎に向かう地表断層



損壊の激しい旧東海大学阿蘇校舎1号館



【地震メモ】
熊本地震で震災遺構となった旧東海大学阿蘇キャンパス。敷地内は蛇のようにうねった地表地震断層のほか、外壁や窓が損傷した1号館、多数の亀裂や段差、隆起が観察できる正面玄関前広場が見学できるコースとなっている。また、近くには黒川峡谷に崩落した阿蘇大橋、大規模な土砂崩れを起こした「数鹿流(すがる)崩れ」の跡を見ることができる展望所もあり、南阿蘇村での熊本地震を知る貴重な遺構となっている。

【参考】
旧東海大学阿蘇校舎1号館掲示資料





【アクセス】
JR熊本駅から約4キロ



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