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【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】 消えた小島(東日本大震災)

2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。

津波をモチーフとしたモニュメント
消えた小島(東日本大震災)
【保険毎日新聞 2025年6月26日 掲載】
明治から昭和にかけて活躍した民謡・童話詩人に野口雨情がいる。「赤い靴」「七つの子」「雨降りお月」「あの町この町」など、幼いころ誰もが耳にしたことのある童謡を作詞。生涯で作った歌は3000編とも言われている。その雨情が生まれたのが北茨城市の磯原という海沿いの町だ。今回の「石碑は語る」は、雨情のふるさと「磯原」が舞台となる。
磯原は水戸からいわきへと向かう常磐線の途中に位置し、眼前には広大な太平洋が広がっている。東日本大震災では東北地方の三陸沿岸の被害が極めて甚大だったことから、関東地方、特に茨城県の被害が見落とされがちだが、地震や津波に県境は関係がない。海に面しているということは、当然ながら厳しい津波被害を免れることはできなかった。
磯原には雨情の生誕地のほかに、もう一つ、観光のシンボルともいえる名所がある。二ツ島と呼ばれる。茨城百景にも選ばれ、干潮時に島に触れると三つの願いごとの一つがかなうと伝わる神秘の島だ。だが、巨大な津波は願いごとを奪うかのようにこの島に迫った。
2011年3月11日、磯原を含む北茨城市は震度6弱の強烈な揺れに見舞われた。地震から45分ほどたった午後3時半ごろのことだ。津波が大きな壁となって襲ってきた。津波は二ツ島をのみ込むと、磯原の町を蹂躙。446棟もの建物を浸水していった。
二ツ島は文字通り、海に浮かぶ大小二つの島だ。否、二つの島だったと呼ぶのが正解だろう。津波が過ぎ去った後、海面には大きい北の島だけが残り、南の島は姿を消した。一方、この北の島とて無事では済まなかった。上部にあった植生ははぎ取られ、形も元の3分の2程度に削られてしまったという。ここに、風光明媚な二ツ島は1島だけが残る二ツ島となった。
この二ツ島からほど近い磯原海岸広場内に東日本大震災慰霊モニュメントが完成したのは、地震からちょうど4年目にあたる平成27(2015)年3月11日のことだ。津波をイメージした碑はこの地を襲った津波の高さ4・4㍍の位置が朱入れされている。碑文は「津波は最大で6・7㍍を記録し、今までに経験したことのない被害をもたらし、一瞬にして死者5名、行方不明者1名の尊い命を奪いました。震災と津波により市内では全壊および半壊家屋は2400戸を超え、自然に対していかに無力であるかを痛感させられました」と記し、震災の教訓を風化させることなく後世へ伝えていく役目を果たすと強調する。
地震の記憶の風化は意外と早い。いつの日か、この二ツ島を訪れた子が親に、なぜ一つしかない島を二ツ島と呼ぶのかを聞いた時、果たして東日本大震災の津波のことを語れる親が残っているだろうか。
(森隆/日本ペンクラブ会員)

津波被害を受けほぼ一つの島となった二ツ島(北の島)

水没した島の一部と思われる
【地震メモ】
福島県いわき市に隣接する北茨城市。東日本大震災では災害関連死を含め死者10人、行方不明者1人、建物被害は全壊188棟、大規模半壊272棟、半壊1064棟、一部破損4720棟に及んでいる。一方、今後の地震については茨城県周辺陸側の活断層の連動や茨城県沖~房総半島沖地震に注意を呼び掛けている。前者の地震では人的被害105人、建物被害は最大で全壊・焼失2263棟。海側の地震では人的被害12人、建物被害は最大全壊・焼失1426棟が想定されている。
【参考】
北茨城市地域防災計画(令和4年3月)、北茨城市耐震改修促進計画(令和4年5月)

【アクセス】
石碑:JR常磐線磯原駅から約1㌔、二ツ島:同約2・1㌔