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【石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~】 免震石鳥居(今市地震)

2011年の東日本大震災の取材で、当社の記者森隆は、三陸地域の海岸沿いの高台に過去の地震や津波の被害を物語る石碑がいくつも残されていることに気付きました。そのような石碑が東北地方のみならず全国各地津々浦々にあることを知った森は、取材で全国を回るなか、足場の悪いところにあることが多い石碑を一つひとつ訪れ、写真に収め由来を調べあげ記事にしてきました。2011年8月から連載をスタート、すでに160か所以上の石碑を紹介してきています。
免震石鳥居(今市地震)

今市地震を記した「震災記念碑」
【保険毎日新聞 2024年11月29日 掲載】
栃木県の観光名所の一つに、平成11(1999)年に世界文化遺産に登録された「日光東照宮」がある。徳川初代将軍の徳川家康を祀ったもので、元和3(1617)年に創建された。現在の社殿の多くは3代将軍家光の時代以降に建てられたとされるが、国宝8棟、重要文化財34棟もの建造物群が建ち並ぶ。豪華絢爛な意匠を施した陽明門をはじめ、五重塔、「見ざる、言わざる、聞かざる」で有名な三猿、左甚五郎作と伝承される「眠り猫」など、さまざまな見どころが訪れる旅人の心を奪う。
日光東照宮の境内に向かう広い参道に、高さ約9㍍の石鳥居(一ノ鳥居)がある。江戸時代初期、黒田官兵衛の嫡男・黒田長政が奉納したもので、日本三大石鳥居の一つだ。直径は3尺5寸(約1㍍)。下からよく見上げると、柱の中間部に継ぎ目がある。
日光が大地震に見舞われた昭和24(1949)年、大きな揺れはこの石鳥居をも容赦なく襲った。通常の石鳥居ならば崩れ落ちていたかもしれない。ところがこの石鳥居、いったんずれたものの、揺れている間にまた元に戻ったという。その様子を怪奇現象という者すらいる。実はこの石鳥居、継ぎ目の中に直径30㌢ほどの穴が彫られ心木でつながっている。これが揺れを吸収して激しい振動に耐えたのではないかと考えられている。
1949年の地震としては、この地を直撃した直下地震の今市地震がある。日光に近い今市を震源としたマグニチュード6・3と6・4の2度の地震だ。
今市地震を記した「震災記念碑」が、二宮尊徳記念館(今市市)敷地内に地震から1年を経た12月に建った。碑文は二町九村が突如激震に襲われたとして、「山は崩れ大地は裂けて井水は涸れ家屋は傾き或いは倒れ人命も奪われた この混乱の中にあって火災を起さなかったことは町民協力の賜であった(中略)、未曾有の災禍を永久に記念する」と伝えている。
地震が起きたのは年の瀬も押し迫った12月26日。関東地方でも内陸に位置する今市の冬の寒さは特に厳しい。家を失った人々に刺すような冷気が襲う。今市地震体験文の中に当時の状況を記した一文がある。被災者の一人は、「零下8度という猛烈な寒波に見舞われた。強烈な寒さにがたがたと震えながら大変厳しい数日間を毛布のテントとローソクの灯で過ごしたが、避難場所の環境としては最悪の状況であり、暖をとるために厚着をしながら、炭火の入った七輪にかじりついていた」と証言している。また、鼻緒が切れて逃げ遅れた女の子が山津波にのみ込まれ埋まってしまったとの悲劇も残る。
江戸時代初期に、果たして地震のことを考えて石鳥居を建てたものか。もし、そうだとすれば、奉納した戦国武将黒田長政の武功の一つとしてたたえられてもいい。
(森隆/日本ペンクラブ会員)

日光東照宮石鳥居

柱の中間部に継ぎ目が残る
【地震メモ】
今市地震は戦後まだ混乱が冷めやらぬ1949年12月26日に発生した。電気や電話も途絶え、気温マイナス8度の暗黒の闇の戸外で人々は余震の地鳴りを聞きながら過ごしたという。人的被害は死者・行方不明者10人。建物の倒壊も多発し、住家被害は全壊・半壊・一部損壊を含め約6300棟に及ぶという。日光地方が震源となった過去の大地震は天和3(1683)年の日光大地震があり、この時も東照宮では石宝塔の九輪が崩落したり、石垣などが崩壊した。
【参考】
日光市史(中)、今市地方震災誌、今市市史(通史編・史料編)、日光東照宮ホームページ、謎と不思議(東照宮再発見)、朝日デジタル

【アクセス】
日光東照宮:JR日光駅から約2.5㎞
震災記念碑:JR今市駅から約0.8㎞