特集 関東大震災から100年(10)石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~
石碑は語る~地震・津波・高潮のつめ跡~(174)
下り109列車(関東大震災)
これは、まだ東海道本線が熱海まで延伸していなかった大正時代の話だ。もちろん、丹那トンネルも完成していない。今でこそ、東海道本線は熱海からこのトンネルを潜って三島方面へと向かうが、この時代、東海道本線は国府津(こうづ)と呼ばれる途中駅から北進し、ぐるりと御殿場を経由して静岡方面へ向かっていた。
一方、国府津から西(熱海)へ向かう鉄道はまだ全線開通しておらず、真鶴駅が終着駅で鴨宮駅、小田原駅、早川駅、根府川駅の4駅があった。
大正12(1923)年9月1日、東京駅午前9時5分発の下り普通109列車真鶴行は何事もなく横浜駅を9時46分、国府津駅を11時21分、小田原駅を11時40分に通過し、11時58分、根府川駅にさしかかった。その時だ。何かに衝突したような鈍い揺れが列車を襲った。最初は地震と気付かなかった乗客も、やがて長い揺れと車窓から見た駅の様子で地震と知りパニックとなっていった。
この駅が悲劇だったのは、標高約45メートルという、いわば崖の上にあったことだ。列車が脱線。しかも、不運はそれだけではなかった。山側の土砂が崩れ、列車は山津波にのまれ、崖地をまるでジェットコースターのように滑り落ちていった。その先には広大な太平洋が広がっている。列車はまるで映画の1シーンのように海中へと没していった。陸上に残ったのは連結器が外れた2両だけだった。
『関東大震災と鉄道』によれば、109列車での人的被害は、「全乗客150人のうち、九死に一生を得てそのまま立ち去った乗客数名と重傷を負って早川駅で救護を受けた者が計約30名、付近を航行中の発動機船に救助されて小田原で医療を受けた重傷者13名、それ以外の約100名が死亡または行方不明となった」という。生存率3分の1。しかも、生き残った者は波に慣れた泳ぎ達者な者で、海中に没しながらも割れた窓ガラスから脱出できたかどうかで運命は分かれた。中には沖合で数時間も海の中に漂い助かった者もいたという。
一方、根府川の駅舎もこの山津波から逃れることはできなかった。ホームや線路を含め、土砂崩れで崖下へ転落した。乗務員、待合客もろともにだ。後に残ったのは巨大な岩石と土塊だけだったという。
震災後、復旧した根府川駅には、亡くなった乗客と乗務員、待合客を悼む石碑が建てられた。今も、改札口横には高さ約1メートルの「関東大震災殉難碑」が通り過ぎる乗客の安全を見守るかのように佇んでいる。
江戸時代、根府川の地は関所が置かれ、交通の要衝として人の行き来を厳しく止めていた。願わくば、大正時代の山津波もぜひ通さずにいてほしかった。
(森隆/ジャーナリスト)
関東大震災殉難碑
眼下に太平洋を望む根府川の崖地
【地震メモ】大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災は、重要な交通インフラである鉄道網にも甚大な被害を与えた。各地で線路の陥没や湾曲、列車の脱線、鉄橋の倒壊、トンネルの崩壊なども起き、地震に対して鉄道網の弱さを露呈した。最近の地震でも阪神・淡路大震災では高架橋や駅の倒壊、新潟県中越地震や東日本大震災では新幹線の脱線事故が起こり、復旧までに時間を要している。
【参考】関東大震災と鉄道(内田宗治)、十一時五十八分懸賞震災実話集(震災共同基金会)、国有鉄道誌、復刻版明治大正鐵道省列車時刻表
【アクセス】JR東海道線根府川駅内
遺構を巡る旅へ~神奈川編――森 隆
【海が燃えた横浜港】
関東大震災では神奈川県の被害が見過ごされがちだが、横浜や鎌倉などでも同じように多くの犠牲者が発生している。
特に被害が集中したのは横浜の中心地、横浜港とその一帯だ。一部を残して海中へ没した大桟橋。海に投げ出された者、桟橋の裂け目に落ちて命を落とす者も出た。そこへ重油火災が襲う。火は海を燃やし、竜巻のような火焔の柱となって船をのみ込んだ。陸側の火災も地獄を見た。港沿いの揮発物貯蔵庫や商店で保管してあった揮発物や危険物が次々と爆発。火は旋風を呼び建物を取り囲んだ。
そうした建物の一つに横浜税関がある。れんが造り、3階建てのゴシック様式の建物だったが倒壊。現在、横浜赤レンガ倉庫近くに震災遺構として保存されている。
【重い腰を上げた鎌倉大仏】
大正時代、鎌倉は湘南の温暖な気候と歴史ある町並から高級別荘地として人気を誇っていた。人口の約3割は別荘関係者だったともいわれる。しかし、その栄華も地震の前にはむなしく崩れ去った。御用邸を含めた多くの別荘が倒壊。4000戸あった町の住戸のうち、約3000戸が全半壊した。さらに強い風に乗って火災が広がる。沿岸部では高さ9~10メートルもの津波が迫る。さすがの鎌倉大仏も重い腰を上げて逃げようとしたのか、1尺(約30センチ)ほど動いた。
【地震に敗れた小田原城】
その昔、豊臣秀吉軍15万の猛攻にも耐えたと言われる小田原城。その難攻不落の小田原城も地震という自然の敵には勝てなかったようだ。江戸時代には元禄地震(1703年)で壊滅的な被害が発生している。その約200年後の大正12(1923)年、関東大震災では建物の倒壊や焼失、津波などにより壊滅的な情況を呈した。小田原城は櫓や天守台、堀の石垣が崩壊。現在も城の西側斜面には関東大震災の地震で崩落した石垣が当時のまま残っている。
神奈川県にはこうした関東大震災の碑やつめ跡が数多く残る。前述の横浜市では山手の旧外国人居留地の一角にれんがの一部だけが残る「山手80番館遺跡」、また、秦野市では土砂崩落によってできた「震生湖」もある。
10万人以上の犠牲者を出した関東大震災。その教訓を胸に刻み、新たな災害に備えなければならない。巨大地震は今日、発生するかもしれないからだ。
横浜赤レンガ倉庫に隣接する旧横浜税関遺構